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Category: 全て
Posted by: gtf-staff3
10月9日は一日中雨でしたが、夕方になって、伴四郎は町に出ていきます。漬物屋に出向いて味噌を買ったのでした。
江戸では、朝に御飯を炊くのが普通でしたが、そこには味噌汁が付くことになっていました。このため、味噌の需要はたいへんなものだったわけですが、江戸では味噌を自製する者はあまりいなかったようです。
味噌は買うのが普通でしたが、京都や大坂では自製している例が多かったようです。冬になると、大豆や塩、そして米麹で味噌を作って、桶に貯えます。使う時に、摺り鉢で摺って使いました。
伴四郎の日記からは、漬物屋が味噌を売っていたことが分かります。江戸では味噌を買いに行ったようですが、京都や大坂では味噌を売り歩く者もいたようです。
江戸の味噌と言うと甘味噌ですが、辛口味噌で知られる赤褐色の仙台味噌も、江戸ではたいへんな人気でした。仙台味噌とは、仙台藩で作られた味噌のことです。
江戸には参勤交代の制度により、諸大名とその家臣が居住することになっていました。江戸の武家人口は約50万人と推定されていますが、実はその大半は、諸大名の家臣とその家族でした。江戸勤番侍の伴四郎もその一人だったわけですが、紀州家クラスの大名になると、その数も数千人に及びます。
そうした事情は、東北一の雄藩として知られた仙台藩伊達家も同じでした。江戸に3000人以上もの家臣がいたと伝えられています。伊達家では家臣たちに供給する味噌を、現在の品川区大井にあった屋敷で醸造していました。
やがて、その味噌の余った分が江戸の味噌問屋に下げ渡され、江戸っ子に売られるようになりましたが、それが仙台味噌としてたいへんな人気を呼んだのです。伴四郎が買った味噌が、甘口味噌なのか辛口味噌だったのか、残念ながらそこまでは日記に書かれていません。
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Posted by: gtf-staff3
10月8日、伴四郎は羊羹を貰いました。主君の徳川茂承がお召し上がりになった羊羹の余りということで頂戴したのです。茂承に献上された羊羹の残りのようです。殿様仲間からの贈答品だったかも知れませんが、いずれにせよ、そのおこぼれに預かったのでした。
江戸の武家社会では、季節の変わり目やご祝儀の時に、様々な品の贈答がおこなわれていました。当然のことながら、江戸城の主である将軍に献上されるものが最上のものですが、諸大名の場合、将軍に献上する以外にも幕府の実力者、つまり老中・若年寄・御側衆、付き合いのある諸大名や旗本。また大奥にも同じ品を贈っていました。
ただし、将軍への敬意を示すためなのか、献上品の残りという名目で贈られました。これを献残品(けんざんひん)と呼びました。
献上されたと言っても、将軍がすべてを味わったのではありません。と言うよりも、そのほとんどを味わうこともなく、側近や大奥に下げ渡され、その懐に入っていたのが実情でした。紀州家に献上された品も、殿様の茂承が味わったわけではなく、その周りの者たちがおこぼれに預かっていたようです。その恩恵に、伴四郎も預かったというわけです。
羊羹と言うと、錬羊羹が思い浮かぶと思いますが、意外にも、錬羊羹が作られたのは18世紀終りの寛政の頃でした。それまでは、蒸羊羹でした。
錬り羊羹に欠かせない寒天が作られたのは、江戸時代前期だったようですが、それから百年以上も経過した寛政の頃になって、日本橋の喜太郎という者がはじめて錬羊羹を作りました。その後、高級の和菓子を作っていた金沢丹後・鈴木越後といった商人が錬羊羹を作りはじめましたが、なかでも深川に店があった船橋屋織江の錬羊羹は大評判になったそうです。
伴四郎がおこぼれに預かった羊羹も、恐らく錬羊羹だったことでしょう。お殿様に献上あるいは贈られた羊羹ですから、それもかなり高級なものだったに違いありません。伴四郎の口にはなかなか届かないレベルの羊羹でした。
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Posted by: gtf-staff3
7日、伴四郎と平三は同僚の森五三郎に誘われて、大久保百人町に出かけていきます。森五三郎は伴四郎のように、江戸勤番として長屋暮らしをしているのではなく、屋敷の外に家を持っていたようです。
幕府の御家人は2万人以上いましたが、そのなかに鉄砲百人組という組がありました。彼らは、現在のJR新大久保駅周辺一体に屋敷地を与えられていました。
幕府の御家人といえども、薄給に変わりはなく、内職しなければとても生活できないというのが実情でした。そこで大久保の鉄砲百人組は、植木の栽培を内職として選びました。そのため、外から見ると、大久保一体はあたかも庭園のような景観を呈していました。
伴四郎たちは、鉄砲百人組の与力を勤める上野という者の屋敷の庭、そして町全体が庭園のようになっていた大久保の町を見物しに行ったのですが、その花の見事さに驚いています。
その後、伴四郎を誘ってくれた森の家に招かれ、御馳走にあずかっています。いつものことですが、何を食べたかを、日記にこと細かく書き残しています。まさしく、花より団子と言ったところでしょうか。
マグロの刺身。巻き玉子。長芋の砂糖煮。いんげん豆の砂糖煮。芋の味噌汁などが出されました。もちろん、お酒もご相伴に預かっています。
江戸の中頃までは、マグロを刺身で食べることはあまりなかったようです。ですが、既にこの頃にはマグロの刺身が一般に普及していました。
刺身に付ける調味料としては、醤油が普及するまでは酢や煎酒が使われていたようです。魚によって醤油も違っていました。タイやヒラメにはわさび醤油。マグロやカツオには、大根おろし入りの醤油が好まれたと言います。
そして、帰りがけには、芋とゴボウの揚げ物をお土産に持たせてくれました。至れり尽くせりと言ったところでしょうが、伴四郎の心には、単身赴任の哀愁がちょっぴり顔を覗かせていたかもしれません。
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Posted by: gtf-staff3
10月6日、伴四郎たちはお殿様の徳川茂承に拝謁します。伴四郎の身分では、御殿で殿様に拝謁することはできなかったようですが、茂承が赤坂屋敷内の庭園を散策している折に、特別に拝謁することが許されたのです。
この日、拝謁することになっていたのは伴四郎たち9人でした。午前10時頃、長屋から御殿に向かいましたが、拝謁の時間は殿様次第だったようです。それまでは、御殿の所定の部屋からは出られず、そこで待機していなければなりませんでした。そのため、伴四郎は寿司を買ってきてくれるよう、駕籠かきの龍之助という者に頼んでいます。
伴四郎の日記には、寿司を食べたという記述が、実によく出てきます。これは握り寿司のことです。江戸では、握り寿司はたいへんな人気でした。
江戸は一口に八百八町と言いますが、1~2町に1軒の割合で寿司屋があったそうです。これは常設の店舗ですか、盛り場などに出ている屋台でも、握り寿司が並べられていました。伴四郎が買い食いしている握り寿司も、屋台に並べられていたものなのでしょう。
握り寿司の値段は、1個8文が相場でした。卵焼きが寿司種の場合は、その倍ぐらいでしたが、いずれにしても、手軽に食べれるものでした。すし種ですが、卵焼き、車海老、海老そぼろ、白魚、マグロ、こはだ、穴子などが使われました。
さて、肝心の拝謁ですが、屋敷内の西園と呼ばれた庭園の洗心亭で、伴四郎は無事に拝謁を済ませています。残念ながら、その時間までは日記に記されていません。
拝謁後、西園内を見て回りましたが、その素晴らしさに感嘆しています。庭内の茶屋では御茶も頂戴しています。この日、長屋に戻ったのは午後4時頃でした。
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10月3日は、この月最初の亥の日だったようです。この日は玄猪の日ということで、諸大名が江戸城に登城し、将軍から紅白の御餅を拝領することになっていました。もちろん、伴四郎の主君である紀州藩主徳川茂承も登城し、将軍家茂から餅を拝領しています。
10月最初の亥の日が、玄猪の日と定められていました。そのため、3日が、この月最初の亥の日とわかるわけです。
この日、餡や胡麻を入れて作った餅を亥の刻、つまり夜の10時頃に食べて無病息災を祈ることになっていました。元々は中国の風習で、10月最初の亥の日に餅を食べれば病が除去できるとされていました。
それが日本に伝わり、宮中儀礼となったのですが、江戸幕府もこの風習を武家社会の儀式として、非常に重んじました。玄猪の儀と呼ばれていました。現在でも、神社では亥子祭りという形で、この儀式が執り行われています。
夕方に江戸城に登城してきた諸大名に対して、紅白の餅が下賜されました。碁石ほどの大きさに平たく切った餅を紙に包んで拝領したそうです。
玄猪の儀は江戸城だけでなく、諸大名の江戸屋敷でもおこなわれましたが、伴四郎も叔父の平三から白餅を貰っています。赤坂屋敷で執り行われた紀州家の玄猪の儀で、平三が拝領したのでしょう。そのおこぼれに預かったわけです。平三からは菊も1輪貰っていますので、長屋のどこかに一緒に飾ったと思われます。
一方、同僚の片野八太夫という者からは、牡丹餅を数個貰っています。このお振る舞いも、玄猪の儀に倣ったものなのでしょう。
早速、伴四郎は食べていますが、たいへん出来の良い牡丹餅で、美味しかったと感想を日記に書き留めています。伴四郎にとっては、お殿様からの白餅よりも、この牡丹餅の方がどうも有り難かったようです。
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月が代わって、10月となりました。この月は、先月ほどは食べ歩きには出かけてはいないようです。1日の日記から読んでみましょう。
この日はあいにく、一日中雨でした。そのため、伴四郎は外食にも出かけませんでした。長屋にある食材で自炊しています。
単身赴任生活ですから、自分で御飯を炊かなければなりません。伴四郎は割合、炊き方は得意だったようですが、この時代は電気もなかったわけですから、御飯を炊くのはたいへんな作業でした。毎日が飯盒炊さんのようなものでした。
当時は、御飯を炊くのは1日1回が普通でしたが、江戸と京都・大坂では違っていました。江戸では朝炊くのが普通で、お味噌汁を付けました。昼御飯と夕御飯は、朝炊いた御飯、つまり冷飯を食べるのでした。京都・大坂では昼御飯を炊くのが普通で、夕御飯や次の日の朝御飯は、その冷飯ということになります。
大きな商店となると、3度の食事ごとに御飯を炊く場合もありましたが、それは例外だったようです。もちろん、2度炊くという事例もありましたが、いずれにせよ、炊飯は江戸の人々にとり、たいへんな作業でした。
この日は、伴四郎ではなく、直助が御飯を炊く順番だったようです。長屋での共同生活ですから、交代で御飯を炊いていたわけですが、直助は炊き方があまり上手でなく、失敗してしまいました。伴四郎は、自分が炊けば上手に炊けたはずだと愚痴っています。
結局、この焦げた御飯で夕御飯も食べることになるわけですが、伴四郎たちは粥にして食べています。江戸ではあまり粥を食べることはなく、むしろ雑炊にして食べたそうです。
一方、京都・大坂では、煮出した茶に塩を加えてお粥にして食べていたそうで、これを茶粥と呼んでいました。伴四郎の故郷和歌山は上方圏に入りますから、お粥にして食べたのでしょう。こういうところにも、江戸と上方の食文化の違いが滲み出ています。
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Posted by: gtf-staff3
伴四郎たちの眼に映った店内の様子ですが、庭付きの小さな座敷が数多くあったようです。その風雅さは、とても言葉では言い表せないほどだったと日記で感想を述べています。
伴四郎たちの食膳を見てみましょう。
残念ながら、魚の種類までは分からないのですが、刺身・黄菊・大根おろし・胡瓜・わさびが、刺身のつまでした。そして、芋と蛸を炊き込んで味付けした御飯もの。それに魚の味噌汁が付く本膳料理が出されました。酒も3合呑んでいます。
高級料亭だけあって、座敷の造りや庭もきれいで、伴四郎は大いに扇屋での食事に満足しています。普段は決して入れない高級な座敷で、高級な料理を堪能していた様子が日記からもよく伝わってきます。
扇屋を出て次に向かったのは、行きにも通った染井や巣鴨でした。この地域は観賞用植物の栽培センターとして知られていたわけですが、染井の名前は日本を訪れた外国人たちにより、後に世界的にも知られることになります。
伴四郎たちも、この植木の里に入っていますが、その壮観さにたいへん驚いています。同じ年に訪日したイギリスの植物学者ロバ-ト・フォ-チュ-ンは染井地域を見て、世界中のどこに行っても、こんなに大規模に売り物の植物が栽培されているのを見たことがないと感嘆の言葉を残しています。まさしく染井・巣鴨地域は、世界有数の園芸センタ-なのでした。
その後、伴四郎たちは市谷まで戻り、お寿司を食べています。扇屋での食事は、高級料理だけあって、あまり分量はなかったということなのでしょうか。同居人の直助には、お土産としてお寿司を2つ買っています。
この日は、伴四郎にとって、たいへん満足の行く一日だったようです。嬉しさのあまり、帰り道では歌を歌いながら帰ったと日記に書き残しているほどでした。江戸に来て、一番の贅沢感を味わったようです。
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飛鳥山でお茶菓子を喫した後、伴四郎たちは近くの王子権現を参詣しています。現在の王子神社のことですが、王子には飛鳥山に加えて、王子権現、そして東国のお稲荷さんの総元締・王子稲荷もあったため、実に多くの参詣(観光)客が押し寄せました。
当然、それを目当てに、多くの料理茶屋が立ち並ぶことになりましたが、なかでも扇屋と海老屋の名前は広く知られていました。伴四郎たちも入ったのは、扇屋の方でした。
扇屋は落語の「王子の狐」にも登場するほどの人気料理屋でしたが、開店したのは寛政11年(1799)のこと。扇屋の名物と言えば、何と言っても、釜焼きと呼ばれた卵焼きです。高級品でした。残念ながら、伴四郎たちが扇屋で卵焼きを食べたかどうかは分かりません。
扇屋で伴四郎たちは、外国人を目撃しています。ロシア・アメリカ・フランス・イギリスの4ケ国の外国人だったと言います。伴四郎たちの目には、国の名前までは分からなかったと思われます。店の人に聞いたのでしょう。
実は、扇屋をはじめ王子の料理屋は、日本にやって来た外国人を接待する場所として知られていました。後年、トロイア遺跡の発掘で知られるハインリッヒ・シュリーマンも江戸を訪れ、王子の料理屋で会席料理に舌鼓を打っています。
扇屋のような高級料理茶屋では、会席料理を売り物としていました。茶菓子から入り、酒のコースとなってお吸い物や口取物が出てきます。そして、煮物、焼き物、刺身、茶碗物。最後に、一汁一菜で御飯を食するという献立でした。店内には離れや庭園が設けられるなど、食空間の雰囲気がたいへん大事にされた造りになっていました。
どうも、伴四郎たちの先客が外国人だったようなのですが、彼らが食事を終わって部屋を出ると、いよいよ伴四郎たちが座敷に通されることになります。
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Posted by: gtf-staff3
この9月は、伴四郎は食べ歩きと江戸観光を満喫しています。26日には、叔父の平三たちと3人連れで、江戸北郊の王子や巣鴨を訪れています。
その日の昼頃、赤坂の長屋を出た伴四郎たちは、最初に小石川伝通院に参詣しています。家康の母親・於大の方の菩提寺であり、徳川家から特に厚い信仰を受けていたお寺です。伝通院には、豊臣秀頼の妻だった家康の孫千姫のお墓もありました。
伝通院を参詣した後は、白山権現に参詣しています。現在は白山神社と言いますが、アジサイで知られた神社です。その後、吉祥寺を参詣しています。二宮尊徳のお墓があることでも知られています。
次に、染井の茶屋で一休みしています。染井は巣鴨と並んで、観賞用植物の栽培センターとして広く知られていました。見物客も多かったため、ご多分に漏れず、茶屋も多かったようです。その一つに入ったのでしょう。
そこで伴四郎たちは、漬大根を一切れ食べています。軒などに干した細長い大根を漬けたわけですが、伴四郎はこれを白髪大根と呼んでいます。その姿が白髪のように見えるということで、そう名付けられたそうです。
そして、江戸の桜の名所として知られた飛鳥山に向かいます。飛鳥山は、紀州家から将軍となった吉宗が造成した観光名所です。元々桜が植えられていたわけではなく、新たに植えて、江戸っ子が花見を楽しめるようにしたのです。
桜を植えただけではありません。元文3年(1738)には、行楽客の便になるよう、飛鳥山周辺に水茶屋54軒の設置を許可しています。吉宗のバックアップなくして、桜の名所・飛鳥山はあり得ませんでした。
こうして、春になると、飛鳥山には多くの江戸っ子が押し寄せるようになり、観光地として大きく発展を遂げます。伴四郎たちは茶屋に入ってお菓子を食べ、お茶を飲んでいます。吉宗が許可した茶店の一つだったかも知れません。その恩恵を、紀州家家臣の伴四郎たちも受けたのでした。
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9月20日に続けて、22日も伴四郎たちは隅田川に向かいます。隅田川には、大川橋より南で言うと、新大橋、両国橋、永代橋の3つの橋が架かっていました。伴四郎たち3人連れが向かった先は、永代橋でした。深川方面に歩いていく場合は、永代橋を渡っていくのが普通でした。
まず、永代橋で永代餅を食べています。永代餅が一体どんな和菓子なのか、よく分かりませんが、永代橋に限らず、隅田川に架かる橋は交通量が激しかったので、その人出に目を付けて、いろいろな商品が売り出されていました。その一つが永代餅だったのでしょう。
永代橋を渡ると深川ですが、まず見えてくるのは深川永代寺です。6万坪もの境内を誇る巨大な寺院でした。その境内や門前は、江戸有数の盛り場として知られていました。永代寺のなかに、富岡八幡宮が鎮座していましたが、伴四郎たちは最初に富岡八幡に参詣しています。
次に、その近くにある深川三十三間堂に参詣しましたが、現在はなく、石碑が立っているだけです。そして、江戸湾に向かって歩き、洲崎弁天に参詣します。海辺の観光名所として、当時たいへんな人気があり、伴四郎も絶景と感想を書き留めています。遠眼鏡で見たところ、異国船の姿が見えたと言います。潮干狩りの名所の一つでもありました。
それから、両国橋の方に向かい、回向院に参詣しましたが、両国橋のたもとの広小路で料理屋に入ったようです。ここには、泡雪豆腐で人気のあった料理屋があり、そこで豆腐、御飯、そしてお味噌汁に舌鼓を打っています。
泡雪豆腐と言うのは、泡雪のように軽くて柔らかい特製豆腐のことです。上方の豆腐の柔らさに対し、江戸の豆腐はその堅さで知られていました。その点でも、泡雪豆腐を出す店は江戸で人気があったのでしょう。
伴四郎にしては大豪遊の一日と言ったところですが、実は前日の夜から、少し風邪気味でした。つまり、風邪薬の代わりと称して、泡雪豆腐を食べたのでした。帰りがけには、お決まりのお酒を買い求め、長屋で呑んでいます。これも、風邪薬というわけなのでした。
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仲見世商店街
伴四郎たちは、祭礼のさなかだった待乳山聖天を参詣した後、浅草寺に向かいます。牛島神社の門前の茶屋で桜餅を食べただけですから、さすがに、お腹が減っていたようで、浅草餅を食べています。
浅草餅は、現在も仲見世などで売られています。金龍山という浅草寺の山号が銘柄に付けられている、由緒ある餡ころ餅です。吉宗が将軍だった享保の頃、名物金龍山浅草餅と銘打つことを許されたと伝えられています。
もちろん、浅草餅だけでは足りませんから、他の店に入って、すし、祇園豆腐、そして御飯を食べて腹ごしらえをしています。向島に広がる料亭に入って食事をしたかったところですが、懐の寂しい伴四郎たちにはとても入れず、浅草で敵を討ったといったところでしょうか。
浅草で腹ごしらえをした後、日本橋に出ましたが、既に日も暮れていました。日本橋と言えば、江戸随一の賑わいの場所ですが、夜に来たことはなかったようです。その賑わいに驚いています。
その後、まっすぐ長屋に戻ることになりますが、直助たちは麹町で、おはぎを買って帰ります。おてつという女性が看板娘でおはぎを売っていたようで、この頃、麹町名物となっていました。
春のお彼岸に食べるのが牡丹餅で、秋のお彼岸に食べるのがおはぎと言うわけですが、次の日の日記を読むと、おはぎのはずが牡丹餅となっています。その区別はあまり厳密ではなかったようにも見えます。
江戸グルメに精を出している伴四郎のことですから、同居人の直助が麹町名物のおはぎを食べているのを見て、大いなる関心を抱いたのでしょう。赤坂と麹町は目と鼻の先ですから、早速このおはぎを食べに出かけます。そして、その日の日記を読むと、牡丹餅と書いてあるのでした。
食べたのは牡丹餅だけではなく、お雑煮も食べています。時間は午後2時頃、この頃の時刻の単位で言うと、八ツ時。まさに、この日の伴四郎のおやつは、牡丹餅とお雑煮なのでした。
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Posted by: gtf-staff3
待乳山聖天
三囲稲荷を参詣した後、伴四郎たちはさらに北東に向かいます。すぐに、牛島神社が見えてきます。当時は、牛の御前とも呼ばれ、三囲稲荷の北東にありました。現在は、三囲稲荷の南西に移っています。
この牛島神社は、撫で牛の石で知られていました。現在もありますが、自分の体の悪い箇所と同じ箇所を撫でると、そこが良くなるというわけです。また、神社ですと、狛犬なわけですが、ここは狛牛でした。
この門前にも茶屋がありましたが、伴四郎たちはここで一休みしています。桜餅を食べていますが、もう少し北東に進むと現れてくる長命寺の名物でもありました。
伴四郎たちは茶屋を出て、北東に向かいますが、次に現れたのは白髭神社です。隅田川七福神の一つですが、伴四郎たちも参詣しています。
そして、しばらく歩くと、木母寺が見えてきます。この木母寺には、梅若塚という名所がありました。謡曲「隅田川」の主人公として知られていた梅若丸の墓所と伝えられる場所でしたが、歌舞伎の題材にもなったことで、江戸っ子には広く知られた観光名所でした。
このため、ご多分に漏れず、木母寺にも境内に参詣客を目当てにした茶屋や料理屋がありました。懐の寂しい伴四郎にはとても入ることができず、ただ羨ましく思うだけでした。
伴四郎たちは、今まで来た道を逆に戻り、橋場の渡しまでやって来ます。当時、隅田川には大川橋などいくつかの橋が架けられていましたが、何箇所か渡し船も出ていました。その一つが橋場の渡しです。現在、白髭橋が架かっている辺りです。次に向かったのは、待乳山聖天なのですが、大川橋まで戻ると、行き過ぎてしまうため、その前に渡し船に乗ったわけです。
待乳山聖天は、大根と巾着がシンボルとなっており、境内の各所にその図柄が彫られた奉納物を見ることができます。現在ではお正月に、茹でた風呂ふき大根が振る舞われることで知られています。
江戸の大根と言うと、練馬大根、亀戸大根が有名ですが、食べ方としては、この味噌を付けて食べる風呂吹き大根はもちろんですが、沢庵としての需要も相当なものでした。江戸の人々は自分でも漬けましたが、汲み取りにやって来た農民たちが、その代金の代わりとして、よく沢庵を持って来ました。江戸の食卓には、大根はもとより、沢庵は欠かせな
い食べ物なのでした。
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吾妻橋
9月20日には、かなりの遠出をします。これまで隅田川界隈に出かけることは何度かありましたが、この日は、隅田川の向こう岸の向島まで足を伸ばしています。
赤坂の長屋を出た伴四郎たちは、丸の内に向かい、呉服橋を経由して、浅草方面に向かいます。いつもは、このまま浅草寺の境内に入るわけですが、この日は浅草寺の前を通り過ぎて、大川橋を渡っています。現在の吾妻橋です。歩いて向島に行く時には、大川橋を渡って行くのが普通でした。
大川橋を渡った伴四郎たちは、隅田川を左手に見ながら北東に向かいますが、間もなく、三囲稲荷(みめぐりいなり)が現れます。たいへん人気のある稲荷でしたが、とりわけ雨乞いと三井越後屋との深い由緒で知られていました。
松尾芭蕉の弟子で宝井其角という俳人がいます。元禄6年(1693)のことと伝えられていますが、この年は干ばつで雨が降らず、農民たちはたいへん困っていました。そのため、この三囲稲荷で雨乞いの祈祷をしましたが、そこを宝井其角が通りかかり、雨乞いの一句を詠んだところ、次の日から雨が降り始めたと言います。現在も、この雨乞いの句碑が残っていますが、伴四郎たちも見たことでしょう。
また、三井越後屋から厚く信仰されていることでも知られていました。現在も、日本橋など三越百貨店の屋上に行くと、三囲稲荷が祀られています。
向島と言うと、当時から隅田川沿いの風光明媚な観光名所として、たいへん人気がありました。当然のことながら、茶屋はもちろん、高級料亭も立ち並び、豪商たちの別荘も数多くありました。
この三囲稲荷も向島の観光スポットの一つでしたが、稲荷周辺に立ち並ぶ料亭や別荘がかもしだす風雅は言葉では表現できないと、伴四郎は日記に書いています。下級武士の伴四郎には、その高級感が羨ましくてなりませんでした。その羨望の眼差しは、この後も続きます。
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日本橋
翌18日、同居人の直助たちは浅草に遊びに行きます。伴四郎も浅草に出かける予定だったようですが、天気がはっきりしなかったため、自重しています。その代わり、房助と一緒に、日本橋に繰り出すことにしました。
日本橋界隈と言えば、三井越後屋をはじめ、江戸随一の商店が立ち並ぶ街でしたから、さぞかし美味しいものが食べられるのでは、と伴四郎は大いに期待したようです。まさに、江戸グルメの一日になるはずでした。
まず、日本橋では、おはぎを食べています。その後、京橋の手前だったようですが、かしわ鍋を食べようと店に入っています。
かしわとは、羽毛が茶褐色の鶏のことです。鶏肉の鍋を食べようというのでした。ところが、出てきた鍋の中の鶏肉は、たいへん堅く、その上、臭いが非常にきつかったようです。伴四郎は、この肉は腐っているのではと酷評しています。
伴四郎たちは、かしわ鍋は一口だけで止めて、ハマグリ鍋に切り替えてしまいます。そこで飲み直していますが、帰りがけ、今度はすいとんを試しに食べてみようということになり、店に入っていきます。
伴四郎はすいとんを食べたことがなかったのですが、当時、すいとんは江戸庶民には人気のある食べ物でした。うどん粉を丸めて味噌汁で煮たものでした。
しかし、伴四郎の口には合わなかったようです。こんなものは、自分たちの食べるものではない。自分よりも身分が下の中間が食べるものだと言うのです。中間というのは足軽の下で、武士たちの雑用に従事する者のことです。
結局、紀伊国坂下で鯖の塩引物を買い、長屋でそれをおかずに御飯を食べています。口直ししたわけですが、その日の日記を見ると、折角美味しい物が食べられると期待して出かけたのに、非常につまらないことになってしまったと愚痴っています。さんざんな江戸グルメの一日でした。
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Posted by: gtf-staff3
愛宕神社
9月14日に続けて、伴四郎は17日にも芝神明宮に参詣しています。だらだら祭りだけあって、祭礼はまだ続いていました。
この日は3人連れで、まず愛宕山に向かっています。江戸の3分の1が見渡されると言われた愛宕山には、愛宕神社が鎮座していました。伴四郎は参詣したことがありましたが、その日、外国人の5人連れを目撃しています。
愛宕神社の門前には、参詣者を目当てにした茶店が立ち並んでいましたが、外国人たちは茶屋の娘をからかっていました。片言の日本語を少し話していたようです。伴四郎は、江戸の観光名所で外国人の姿をよく見かけています。
そして愛宕山を降りて、増上寺に向かっています。増上寺の南側には芝の東照宮がありましたが、言うまでもなく、初代将軍徳川家康を祀った御宮です。歴代将軍のお墓は、上野の寛永寺と芝の増上寺にありましたが、各々に東照宮はありました。東照宮を参詣した後、芝神明宮に向かいますが、境内は祭礼の最中でしたから、たいへん賑わっていました。
しかし、少し雨が降ってきたため、帰り道を急いでいます。赤坂屋敷の近くの紀伊国坂下で、伴四郎は細魚の干物を、連れの大石直助は塩を買って長屋に戻りました。伴四郎の買った細魚が何だったかは分かりませんが、直助が買った塩は、自炊には欠かせない食品です。
江戸に入ってくる塩は瀬戸内海産の下り塩でした。当時、上方や西国から江戸に送られてくる品物は下り物と呼ばれましたが、塩や酒などはその代表的なものでした。塩は漬物など商品保存用としても用いられたわけですが、味噌や醤油などの原料としても欠かせません。関東の濃口醤油の原料は、瀬戸内海産の塩でした。
直助の買った塩は、自炊用でしょうか。塩にしても醤油にしても、同居人どうしで共用していたようですから、この塩も自分で使ったでしょうが、伴四郎たちも使ったのでしょう。食事の時、あるいは調理の時に、塩は大いに活躍したのでした。
塩の使い道は他にもあります。農作物の肥料や医療品としても使われましたが、歯みがき粉という用途もあります。もしかしたら、歯みがき粉用に買ったのかもしれません。
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Posted by: gtf-staff3
この月は連日のように、伴四郎は江戸観光と食べ歩きに精を出しています。妙法寺まで遠出した翌日の14日には、4人連れで芝の神明宮に出かけていきます。1日に出かけたばかりでしたが、ちょうど、生姜祭りがはじまっていたのです。
この時は、もちろん旧暦ですが、神明宮の生姜祭りは、9月11日から21日まで続きます。そのため、だらだら祭りとも言われました。
このだらだら祭りの名物と言えば、生姜の市が立つことでした。現在も、だらだら祭りの時は境内が葉生姜の香りに包まれますが、この時代、生姜と言えば谷中生姜が有名で、谷中の代名詞にもなっていました。
江戸近郊の農村では、江戸という大消費地に向けて農産物を供給する野菜の生産が盛んでしたが、生姜もその一つです。谷中以外でも生姜は作られていましたが、いつしか生姜と言えば谷中が連想されるようになりました。それだけ、谷中で生姜の生産が盛んだったのでしょう。
生姜は香辛料として使われ、江戸料理には欠かせない食品となります。生姜を原料とした食べ物にはいろいろありますが、例えば生姜と砂糖で作った生姜糖というお菓子があります。伊勢神宮への御参り(伊勢参り)は、江戸の人々にとって通過儀礼のようなものでしたが、伊勢参りのお土産品として、この生姜糖が人気を呼ぶことになります。
神明宮の境内と言うと、江戸有数の盛り場でもありました。境内には飲食店をはじめ、歌舞伎や見世物の小屋までありましたが、お祭りとなれば、賑やかさはさらに増すことになります。
伴四郎も見世物小屋に入って、生人形を見物しています。精巧な造りの生人形は、この頃の見世物の定番の一つでもありました。江戸の見世物文化のレベルはたいへん高いものでした。
その後、門前の店に入って蕎麦を食べていますが、境内では芥子人形とメリヤスを買っています。芥子人形と言うのは、衣装を付けた小さい人形のことで、雛祭りの時に用いられたと言います。伴四郎は遠く和歌山の屋敷にいる幼い娘のことを思い、買ったのでしょう。
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Posted by: gtf-staff3
妙法寺
9月13日、伴四郎は6~7人連れで遠出をします。遠出となると、赤坂から見て東の隅田川界隈に出かけることが多かったのですが、この日は、西に向かいます。厄除けのお寺として知られていた妙法寺や大宮八幡宮に出かけていきます。
赤坂を出て、甲州街道を西に向かうと、四谷の大木戸があります。この大木戸までが江戸で、大木戸を出ると江戸ではなくなります。大木戸からは内藤新宿の宿場が広がっています。現在、新宿の伊勢丹がある追分で、道が2つに分かれます。左は甲州街道ですが、右は青梅街道のはじまりです。妙法寺に行くには、青梅街道を進むことになります。
中野宿を通過して暫く歩くと、左に鍋屋横町が見えてきます。この鍋屋横町から妙法寺までは一本道ですが、この道の両側には、妙法寺への参詣客を目当てにした茶店が数多く立ち並んでいました。それだけ、妙法寺への参詣が多かったということなのですが、いつしか、この道は妙法寺道と呼ばれるようになりました。伴四郎たちは、妙法寺道沿いに立ち並ぶ茶店には立ち寄らずに、まっすぐ妙法寺に向かいます。
妙法寺を参詣した後、伴四郎と叔父の平三は皆と別れ、茶店でお汁粉を食べています。少し腹ごしらえをした後、今度は大宮八幡宮に向かいます。境内が6万坪以上もあった神社で、現在もその名残りは残っています。この八幡様で、伴四郎たちは由井正雪が奉納したと伝えられる額を見ています。
由井正雪は紀州家ともゆかりがあります。由井正雪は幕府転覆をはかった人物と伝えられていますが、その時関係を疑われたのが、紀州家初代藩主徳川頼宣でした。
八幡宮で御守を買った後、再び妙法寺に戻り、門前の料理茶屋に入ったようです。お決まりの酒と御飯ということになるわけですが、なんと卵焼きを注文しています。この卵焼きと言うのは、厚焼き玉子のことです。卵料理はさまざまなものがありましたが、江戸前の甘い厚焼き玉子となると、高級品でした。そのため、落語の「長屋の花見」では沢庵が代用されているわけです。
港区赤坂から現在の杉並区堀の内まで歩いて往復となると、かなりの距離です。伴四郎たちにとっては、長い帰り道もあることでしたから、思い切って大奮発したのでしょう。この日、赤坂の長屋に戻ったのは、夕方4時頃でした。
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9月10日は、朝から雨でした。お昼を過ぎると雨も止んだため、午後2時ぐらいに、伴四郎たちは4人連れで、虎ノ門の讃岐丸亀藩主京極家の上屋敷に向かいます。この屋敷の中に、讃岐の金刀比羅宮から勧請した金比羅社が祀られていましたが、毎月10日に限って、特別に一般に公開していました。江戸では、赤羽橋の水天宮と並んで、たいへん人気のある大名屋敷の神様でした。
この日も、参詣者で賑わっていましたが、あまりの混雑に、伴四郎たちはバラバラになってしまいました。各自、赤坂に戻ったようですが、伴四郎は帰りがけに、塩引鮭を買っています。2尺5寸ほどで256文ということですが、伴四郎によれば、和歌山で買うよりも格安だったようです。
伴四郎にとり、毎月10日は精進日でした。酒井家の祖先の誰かの忌日だったようです。その日は精進の日として、肉は食べずに、菜食でした。ですが、夕方ぐらいからは、精進明けということで、魚肉を食べたようで、この日は鮭を買って食べたというわけです。
冷蔵庫もないこの時代、魚に限らず、塩は保存用食品としてたいへん重宝されました。塩の消費量の約半分が、実は漬物や塩魚、塩漬に用いられていたという試算まであります。
塩引鮭は贈答用として、たいへん喜ばれた海産物です。東北や北陸などの諸大名は、徳川将軍家に毎年、初鮭を競って献上しています。もちろん初物ということもありますが、それだけ鮭は人気が高く、値も張った食べ物だったことが分かります。
ですが、さすがに江戸となると、海産物も豊富なためか、塩引鮭の価格は、和歌山城下よりも、かなり格安だったようです。鮭に限らず、塩魚全般に、それはあてはまります。このため、伴四郎は江戸で、鮭を度々買って食べています。故郷の和歌山では、そう簡単には鮭は食べられませんでしたから、下級武士の伴四郎にとり、江戸勤番の楽しみは、こういうところにもありました。
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9月9日は重陽の節句です。江戸時代には五節句というものがあり、武家社会ではたいへん重要視された日であったことは、【第12話】「サバと素麺の日」で既に述べました。
五節句の一つである重陽の節句は、別名、菊の節句とも言います。元々は中国の習慣です。菊酒を飲んで邪気を払い、長命を願ったのですが、この風習が日本に入り、朝廷の行事となっていきました。それを、江戸幕府も踏襲したというわけです。武家社会だけでなく、農村でも重陽の節句のお祝いをしましたが、栗御飯を炊いてお祝いしたため、栗の節句とも呼ばれていました。
さて、伴四郎ですが、この日、小豆の煮汁と小豆で赤飯を炊いています。単身赴任生活ですから、自分で赤飯を炊いて、重陽の節句をお祝いしたのです。たいへん良く出来たと自画自賛しています。
ですが、赤飯だけでは、ちょっと寂しいということで、鰹節を添えてお祝いしています。魚でもあればというところでしたが、魚があまり出回っていない時節でしたので、鰹節で代用しています。
この頃、鰹節は縁起の良いものとして祝儀に用いられるものでした。つまり、「勝男武士」という語感に通じるからですが、鰹節は調味料として江戸の食文化を一変させます。現在の鰹節に近いものは、吉宗が将軍だった享保の頃に登場してきたと言われています。江戸の三大鰹節と言えば、紀州熊野節、土佐節、薩摩節の3つでしたが、この頃には伊豆節が台頭しています。
しかし、伴四郎としては、赤飯と鰹節だけではやはり物足りなかったようです。夕御飯には、焼き豆腐を食べながら、酒を1合呑んでいます。これが、伴四郎のこの日のお祝いの食膳でした。
ちなみに、同じ長屋の大石直助は、この日薬喰いをしているそうです。【第19話】「ブタ肉の薬喰い」で見ましたが、この当時、薬喰いと言うのは、ブタやシカ、イノシシの肉を食べることでした。伴四郎の作った赤飯を食べながら、直助は重陽の節句にかこつけて、ブタなどの肉を鍋でつついて食べたのでしょう。
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8月は夏だったせいでしょうか。伴四郎はあまり遠出の外出はしていません。もちろん、カツオにあたってしまったことも大きかったようですが、9月に入ると、食欲の秋というわけではありませんが、食べ歩きに精を出しています。
9月1日、伴四郎は叔父の平三らと芝に出かけます。芝と言うと増上寺ですが、その近くにある芝神明宮も、大勢の参詣客が押し寄せる神社として知られていました。境内で大々餅を買って食べています。大々餅は芝神明宮の名物でした。
翌々日の3日には、屋敷からも近い赤坂の氷川神社に参詣しています。紀州家とも縁の深い神社です。以前は別の場所に鎮座していましたが、享保14年(1729)に、紀州家から将軍となった吉宗が現在地に移転させます。明治に入ってから、紀州家赤坂屋敷にあった櫓太鼓が奉納され、現在も使用されています。
その後、伴四郎たちは芝に向かい、日影町をぶらつきます。現在の港区新橋の辺りです。芝の日影町と言えば、古着屋が多い町として知られていましたから、古着を買い求めようとしていたのでしょう。当時は、武士であっても、古着屋で衣服を買い求めるのはごく普通のことでした。
そして、この辺りで、おはぎを食べていますが、白砂糖で味付けされたものであったため、たいへん甘かったと日記に書いています。
江戸の初めの頃は、砂糖は高級品でした。長崎に入ってくる輸入物だったからですが、このため、砂糖の国産化は江戸幕府の大きな課題でした。この課題に熱心に取り組んだのも吉宗でした。
吉宗は砂糖の国産を奨励し、江戸城内の薬園でも砂糖きびを栽培しています。こうした一連の奨励策により、砂糖の生産量は飛躍的に増加し、江戸の食文化、とりわけ和菓子にはかりしれない影響を与えました。
こうして、幕末の頃には、一般庶民も白砂糖で作った甘い和菓子を手軽に安く食べられるようになったのです。その恩恵を、伴四郎も大いに受けているのでした。
おはぎを食べた後、今度は芝の西久保でお雑煮を食べ、長屋に戻ることになります。長屋への帰途、赤坂の一ツ木では、かじきまぐろを買っています。長屋に戻ったのは、午後6時頃。かじきまぐろを、夕御飯のおかずにしたというわけです。
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生のブタ肉を買って帰った同じ25日、伴四郎は叔父の宇治田平三と一緒に平川天神社に参詣しています。平川天神社は現在の平川天満宮ですが、境内は参詣者でたいへん賑わっていました。
その境内か門前かは分かりませんが、芋かんというものを買って食べています。3つ食べたそうです。
琉球芋に粟砂糖を付けて、練り固めたものということですが、焼いたものではなさそうです。琉球芋とは、サツマイモのことでしょう。サツマイモは元々、中国大陸からやって来たものですが、琉球を経由して薩摩国に入り、関東周辺にも普及しました。そのため、サツマイモ、あるいは琉球芋と呼ばれたそうですが、サツマイモを関東に根付かせた最大の貢献者と言えば、甘藷先生こと青木昆陽の名前が挙げられるでしょう。
昆陽は幕府の許可を得て、薩摩から種芋を取り寄せ、千葉などで試作に取り組みました。幕府肝煎りの育成事業でした。様々な困難を経て、サツマイモは徐々に関東農村に根付き、大消費都市江戸に大量出荷できるまでになります。それだけ、サツマイモが江戸の食生活で定着していったということでもありました。この功績により、昆陽は甘藷先生と呼ばれるようになりましたが、その墓所は、伴四郎も参詣した目黒不動近くにあります。
サツマイモの食べ方は、煮て蒸す方法と焼く方法に分けられるでしょう。京都や大坂、つまり関西では芋を蒸して販売する店が多かったと言います。伴四郎が食べた芋かんというのも、蒸したものでしょう。伴四郎の故郷和歌山は関西圏ですから、蒸した芋の方が親しみがあるわけです。
その一方、江戸では、何と言っても焼芋でした。後の日記を読んで見ると、伴四郎は焼き芋も食べているようです。
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8月には、ブタ肉の記事がよく出てきます。18日に続けて25日の記事にも、ブタ肉の記事があります。この日、伴四郎は薬代わりという名目で、ブタの生肉を買っています。伴四郎は風邪気味でした。酒好きの伴四郎としては、当然のことながら、お酒を呑みながらブタ肉を食べるつもりでした。
ブタに限らず、江戸の人々は肉を食べていました。もちろん、日常的に肉を食べていたわけではなかったのですが、薬食いと称して、ブタやシカ、あるいはイノシシの肉などを食べています。病気で体が弱っているとして、肉を食べることで栄養をつけて、体力を回復しようというわけですが、そんなわけで、幕末の江戸では獣肉はかなりの需要がありました。そのため、こうした光景は決して珍しいものではありませんでした。
肉の食べ方ですが、焼肉ではなく、煮て食べるのが普通でした。鍋で煮て食べたわけです。肉だけ食べたのではなく、ネギを入れたり、味噌などで味付けしたうえで、食べました。もちろん臭いを消して食べやすくするという目的もありました。
シカやイノシシなどの肉を売る店は、ももんじ屋と呼ばれていました。伴四郎が入った店も、ももんじ屋でしょう。
翌26日の記事を見ると、果たせるかな、風邪薬と称して、お酒を呑みながら豚肉を食べています。3合も呑んでいます。外の店に入って食べたのではなく、長屋で鍋をつついて食べたのです。その方が割安で、気楽だからでしょう。
ブタ肉は翌日の薬替わりになるわけですが、その日の薬替わりと称して、伴四郎たちは蕎麦屋に入り、いろいろ食べています。蛸・長芋・蓮根の甘煮が薬代わりでしたが、もちろん酒も呑んでいます。この日の酒量は2合でした。
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18日のお昼過ぎに、伴四郎たちは久しぶりの江戸観光を楽しみます。まず、上野に出て、それから浅草に回ります。途中、甘酒を飲み、寿司を食べたようですが、浅草寺に参詣した頃には、お腹が減ってしまいました。
ちょうど運良く、祇園豆腐を出している店がありました。さすがに、浅草寺周辺となると食べ物には事欠きません。
祇園豆腐と言うのは、薄く切って串に刺した豆腐を焼き、味噌だれで煮て、麩粉をかけたものです。いわゆる田楽の一つですが、京都の八坂神社門前の茶屋で売られたことから、祇園豆腐と呼ばれたそうです。
それから、伴四郎は今度は両国に向かっています。両国橋の橋の袂は、江戸有数の盛り場でした。飲食店はもちろんのこと、様々な見世物小屋までありました。伴四郎は、そこでトラの見世物を見ています。
伴四郎が見たトラは、大きな犬ぐらいの大きさでした。生後7ケ月と言います。トラという触れ込みでしたが、本当はヒョウではないかと伴四郎は言っています。もちろん、日本に生息していたのではなく、オランダ人が長崎に持ち込んできたヒョウのようです。
公方様、つまり将軍家茂も御覧になったと言いますが、その真偽は定かではありません。700文を支払えば、鶏を1羽買い取って、その豹が鶏を食べるところを見ることができました。
この後、伴四郎たちは赤坂に戻ったわけですが、経路を振り返ってみると、その日はかなりの距離を歩いています。5里、つまり20キロぐらい歩いたのではないかと日記にも書いています。
さすがにお腹が減ったのでしょう。赤坂へ帰る道すがら、ブタ鍋と酒を1合呑んでいます。この後の日記を読んでみると、ブタ肉を食べたという記事がよく出てきます。伴四郎たちにとり、疲れを取るにはブタ肉が一番だったのでしょうか。
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8月15日は仲秋の名月として、月見の日でした。月見の行事は、平安時代に日本に入ってきたようですが、それは貴族など上流階級の楽しみでした。しかし、江戸の頃になると、このハイソな楽しみを、江戸っ子も楽しむようになります。
月見に供える食べ物と言えば団子ですが、団子のほか、当時の人たちは里芋も供えました。なぜ、里芋を供えたかと言うと、お米が大陸から入ってくるまで、日本人の主食は里芋でした。里芋の収穫をお祝いして、この日に月見の宴が設けられたわけですが、当然ながら里芋が供えられることになります。この風習が連綿と伝えられてきたわけです。
団子や里芋のほか、すすきや秋草を飾って、江戸っ子は月見を楽しみましたが、江戸の月見の名所と言えば、海辺沿いの高輪などが挙げられます。ですが、伴四郎たちは赤坂の長屋でささやかな月見をしたのです。
8月15日は十五夜の月ですが、この十五夜の月を見た人たちは、次の十三夜の月、つまり9月13日の月見もするのがお約束となっていました。十五夜の月は里芋を供えるため、芋名月。十三夜の月は枝豆を供えるため、豆名月と呼ばれたそうです。
さて、伴四郎は月見の団子を、手ずから作っています。白玉粉で作りましたが、長屋の同僚たちは、美味しい、美味しいと言ってくれたようです。団子を作ったのは伴四郎でしたが、芋つまり里芋や枝豆は、同僚から貰っています。その代わり、伴四郎は団子を贈ったわけです。
月見の日、伴四郎は団子だけを食べたのではありませんでした。3人連れで、近くの市谷八幡に参詣しています。この八幡様の境内はたいへん賑やかで、飲食店はちもろんのこと、芝居小屋などもあったそうです。現在は、市谷亀岡八幡宮と言います。
参詣後、蕎麦屋に入って、あなご鍋。どじょう鍋。そして蕎麦と酒を2合呑んでいます。これが、伴四郎たちにとって、本当の月見の宴だったようです。
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7月28日のお昼時に、伴四郎はアジの干物を25枚、同僚から貰っています。長屋住まいの御近所さんからのお裾分けといったところです。
当時は冷蔵庫もないわけですから、生物、特に魚介類は干物で食べることが多かったようです。もちろん、刺身などは生のまま食べてはいました。お寿司もあります。しかし、どうしても腐りやすく、食あたりの危険性も高かったため、主に干物という形で食べました。
当時、江戸に住んでいた人たちの食生活は、白米がその中心でした。農村の場合は、逆に白米が食べられるのは年に何回もなく、それもお祝いの時などでした。それだけ、白米は貴重なものでしたが、よく言われるように、江戸では白米の取り過ぎで脚気になる人も多かったようです。これを、俗に江戸煩いと呼びました。
白米をたくさん食べられた割には、おかずは質素なものでしたが、このため干物は貴重なおかずでした。特に、アジは伴四郎の日記を読んでも、あまり出てくる魚ではありません。当時、アジは高級魚だったようです。
ですが、いつも干物ばかりではつまらないわけで、やはり生魚が食べたいところです。8月1日に、待望のカツオが手に入ります。カツオと言うと、「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」という有名な句がありますが、当時、その年最初のカツオ、つまり初ガツオは異常なほどの人気を呼びました。
春はカツオの出はじめでしたので、価格も高かったわけですが、8月頃となれば、価格も下がり、伴四郎たちも食べられるようになったというわけです。もちろん、生のカツオだったので、早速お酒を買ってきて、カツオの美味を堪能します。
その日の夜8時頃、伴四郎たちはカツオを食べたのですが、10時過ぎになって、猛烈にお腹が痛くなってきました。なんと、カツオにあたってしまったのです。
伴四郎たちは、代わる代わる、外の雪隠つまりトイレに出たり入ったりしています。実は伴四郎は、昼頃から頭痛だったのですが、カツオを食べてから、余計頭が痛くなり、お腹がでんぐり返るような状況になってしまいました。
伴四郎は、この後数日、カツオの後遺症に苦しむことになりますが、それだけ、食あたりの危険性があっても、生魚を食べたかったということなのでしょう。当時、いかに生魚が貴重だったかが分かります。
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浅草寺
ずっと、食べ歩きができなかった伴四郎ですが、7月16日、久しぶりに同僚と連れ立って、食べ歩きに出かけます。伴四郎も含めた5人連れが向かったのは、まず上野でした。
赤坂から上野まで歩くとなると、かなりの距離です。そのためか、上野の手前で、餅を食べています。少し腹ごしらえをしてから、浅草に向かいましたが、浅草では蕎麦屋に入り、蕎麦を食べています。浅草と言えば浅草寺ですが、その周辺に飲食店が多いのは、今も江戸時代もまったく変わりはありません。
その後、浅草寺の観音様に参詣した後、境内で興行されていたお化けの見世物を見物しています。お化けの見世物は、江戸の夏の定番の出し物でした。
小屋を出ると、夕立に遭ってしまったため、茶店に入って雨宿りをしています。その間、穴子・芋・タコの甘煮を、御飯と一緒に食べています。酒はもちろんです。
その後、浅草寺の裏手にあった幕府公認の遊廓吉原に繰り込み、生まれてはじめて、おいらん道中を見ています。そこでスイカを一切買っていますが、当時スイカは水菓子と呼ばれていました。水菓子とは、果物のことです。
スイカは、夏の食べ物として人気があり、江戸近郊の農村で広く作られていました。江戸っ子の需要に期待したわけです。ただし、当時のスイカはあまり甘くなかったようです。現在のように甘いスイカになったのは、明治に入ってからでした。
吉原を出た後、一行は今度は両国橋に向かっています。両国橋のたもとに広がる東西広小路は、江戸随一の繁華街でした。飲食店はもちろんのこと、様々な見世物小屋などが立ち並び、江戸のエンタメ街として知られていました。伴四郎らも、両国の見世物小屋に入っています。
その出し物を見物した後、帰途につくわけですが、この日は10キロ以上歩いたのではないでしょうか。伴四郎らの健脚ぶりには驚いてしまいますが、それを支えていたのが各観光スポットに並べられていた飲食物でした。
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6月中は、いろいろ出歩いていた伴四郎ですが、7月に入ると、忙しかったためか、あまり外に出歩いていません。なかなか食べ歩きもできず、食べ物を買ってきて、自炊のような生活を送っています。13日には、ハマグリを買ってきて、酒の肴にしようとしています。
ハマグリと言えば、その手は桑名の焼き蛤というように、伊勢桑名のハマグリが名物でしたが、伴四郎が食べたハマグリは、江戸近海ものでしょう。行商人から買ったのかどうかは分かりませんが、江戸の町を売り歩く行商人は、ハマグリのほか、アサリ、シジミなどを売っていました。江戸では、シジミはむき身のものではなく、殻付きのままでした。貝類は割合値段も安かったため、江戸っ子にとり貴重なタンパク源でした。
伴四郎は潮干狩りはしなかったようですが、江戸っ子にとって潮干狩りはたいへん人気のあるレジャーでした。江戸の潮干狩りの名所としては、佃煮を生んだ佃島のほか、高輪、芝浦、品川、深川の洲崎などが挙げられます。
潮干狩りの時期ですが、雛祭りの前後に潮が大きく引くため、潮干狩りには絶好の時期でした。春の終わりから、夏の初めの時期が潮干狩りの旬だったようです。鍋も持参してきて、取った貝類を海辺で料理し食べてしまうわけです。潮干狩りを楽しんでいる様子は、錦絵などの題材としてもよく取り上げられました。いずれにしても、現代の東京湾岸では、とても考えられない、また味わえないものでしょう。
ハマグリの食べ方は焼くのが一番だったようですが、時雨ハマグリという食べ方もあります。これも桑名の名産ですが、ハマグリのむき身をゆで揚げ、そのゆで汁に味噌たまり、山椒、木くらげ、ショウガなどを加えて、むき身を煮詰めたものを指します。
伴四郎はどういう食べ方をしたのか、残念ながらよく分かりませんが、ハマグリに限らず、貝類は大好物でした。ただ、この日伴四郎が買ったハマグリは外れだったようで、酒の肴にはなりませんでした。珍しく、この日伴四郎は酒を呑みませんでした。毎日のように酒を呑んでいる伴四郎なのですが、よほど、このハマグリにはがっかりしたのでしょう。
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7月8日、伴四郎らは思わぬ食事をすることになります。なんと、ハトを食べることになったのです。それも、主君が大事にしている御鷹様が食べるはずのハトでした。
将軍家や諸大名にとり、野外で鷹を使って狩猟することは、堅苦しい城内の生活から解放され、そしてリフレッシュできる貴重な機会でした。このリクリエーションを、鷹狩りと呼びます。
将軍様にせよ、殿様にせよ、その拳に留まる鷹は、野生の状態から飼い慣らさなければなりません。その任務に当たったのが、鷹匠でした。まず、鷹匠は自分に馴らすため夜中に、鷹を拳に据えて出歩きました。これを夜据えと称しました。馴れてくると、次第に昼間に移行し、人込みに馴れさせます。
そして、調教が開始されますが、その餌はスズメやハトでした。将軍の鷹匠の場合、昼と夜はスズメを2羽ずつ与えました。馴れてくると、朝と昼にスズメ2羽、ハトを1羽。夕方と夜にはスズメを3羽与えました。もちろん、これは生き餌です。
その餌のはずのハトを、どういう経緯だったのかは分かりませんが、伴四郎ら江戸勤番の武士たちは手に入れ、みんなで食べることになったのです。食べ方ですが、その肉を煮込み、みんなでつついて賞味したようです。それをおかずに、御飯を食べたわけですが、伴四郎はご飯は食べずに、酒のつまみにしてしまったようです。
鷹狩りの獲物には、ツルやキジ、ウズラなどがありました。将軍の鷹狩りで得られたツルは、切り身にされて、有力大名が賜ることになっていました。伴四郎の主人である紀州藩主徳川茂承も、その一人です。御三家と前田家のみ、毎年、将軍からツルを拝領する決まりになっていました。この4つの家は、諸大名のなかでも特別待遇を受けていたのです。前回のサバ献上と同じです。
将軍からツルを賜ると、紀州家では拝領したツルの切り身をもとにお吸い物を作り、家臣たちが頂戴することになっていました。宴席を設けて、料理されたツルが家中に振る舞われたのです。
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7月7日は、七夕です。江戸時代は、五節句の一つとして、たいへん大事な日とされていました。
五節句と言うのは、人日の節句(1月7日)、上巳の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)、七夕の節句(7月7日)、重陽の節句(9月9日)の5つです。江戸幕府は、この5つの日を五節句と定め、お祝いの行事を城中で行いました。当然、諸大名はその行事に参列するため、江戸城に登城します。このため、伴四郎は、わざわざ桜田門まで出掛け、大名の登城見物をしています。6月1日以来の桜田門でした。
長屋に帰ると、節句だからと言って、同僚にサバを奢っているようです。実は、前日の7月6日、江戸城では徳川御三家をはじめ、有力大名が七夕のご祝儀(鯖代)として金や銀を献上する慣習になっていました。御三家と加賀百万石前田家のみ、サバも200刺、別に献上したようです。それにちなんで、サバを奢ったのでしょう。
サバは古来より、日本人の食文化に深く根付いている魚です。日本海に面する若狭国(現福井県)から京都に通じる街道は、鯖街道とも呼ばれました。それだけ、日本海で取れたサバが若狭から京都に入っていったということでもありました。京都の朝廷にサバが献上されたことに倣って、諸大名が将軍にサバを献上したのでしょう。
ただ、献上される幕府としては、サバをそんなに献上されても困ります。献上する側の大名にしても、江戸でサバを調達するのは大変です。ですから、お互いの都合が相まって、金や銀で献上することになったわけです。しかし、徳川将軍家とも縁が深い4つの大名は、現物でも献上したようです。
伴四郎がサバを食べたかどうかはわかりませんが、酒は呑んでいます。つまみに、サバを食べたのかもしれません。いずれにしても、軽いお昼御飯といったところでした。
そして、一休みした後、午後二時頃、今度は素麺を茹でて、食べています。七夕に素麺を食べるのは、この頃には年中行事となっていました。現在、七夕の日は素麺の日となっています。
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7月4日、伴四郎は長屋を出て、外国人見物に出掛けています。幕府が諸外国と通商条約を結び、江戸に公使館が置かれるようになると、外国人が次々と江戸に入ってきました。
時代劇や時代小説の世界では、江戸の町に外国人が入ってくると、殺気立った攘夷の志士が切り込んできそうです。もちろん、その危険性は充分にあり、幕府も警備の役人を付けています。
しかし、大半の江戸っ子は、外国人を敵視することはなく、むしろ物珍しい存在として見ていました。ですから、外国人がやって来るという話を聞くと、その場所に大挙押し寄せます。外国人が江戸の町を歩いていると、その跡をゾロゾロ付いてきました。当時、日本にやって来た外国人の日記などを見ると、ゾロゾロ歩いている様子がよく描かれています。
物見高い江戸っ子と一緒になって、外国人の行列を見物した伴四郎ですが、見物人はなんと、数万人もいたといいます。残念ながら、どこで行列を見たのかは良くわかりませんが、おそらく江戸城の城門のどれかです。江戸城で、幕府の外務官僚と外交交渉をおこなうため、江戸城に向かったのでしょう。
行列が行ってしまった後、伴四郎は丸の内や木挽町などを歩いていますが、間もなく、お約束の腹が北山となりました。そんなわけで、汁粉屋に入って、汁粉と粟餅を食べています。
江戸の町には、汁粉屋はたくさんあったようです。江戸では、小豆の皮を取って、安い白砂糖や黒砂糖を加え、切餅を煮るのを汁粉と呼びました。一方、京都・大坂では、小豆の皮を取らずに、黒砂糖を加えて丸餅を煮るのを善哉と呼びました。小豆の皮を取ったものは、汁粉と呼んだようです。一口に汁粉と言っても、バリエーションに富んでいました。江戸の食文化の多様さが分かります。
汁粉や雑煮を売る店の看板には、正月屋と書かれていました。お汁粉もお雑煮も、元々はお正月の食べ物だったことが、その理由ではないかと言われています。
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水天宮 6月25日、伴四郎は平三や為吉と一緒に、九州を本拠とする大名の江戸屋敷を見物に出かけています。筑後久留米藩主有馬家の赤羽橋屋敷と、薩摩藩島津家の高輪屋敷です。大名屋敷もその壮麗な造りで、江戸の観光名所になっていたわけですが、東京タワーや増上寺にも程近い有馬家の赤羽橋屋敷の中には、もう一つ名所がありました。
有馬家の居城がある久留米は、安産の神様として知られる水天宮が鎮座していることでも知られています。これを江戸屋敷に勧請して、毎月5日に江戸市民にも拝観を許したところ、たいへんな人気を呼びました。当時は安産だけでなく、水難や火防の神様として水天宮は厚い信仰を受けていました。普段は大名屋敷の中には入れないことが、江戸っ子の興味を引いたのでしょう。
毎月5日の拝観日には、屋敷の門前に参詣客が押し寄せましたが、それに目を付け、飲食店も出店しました。この辺りは武家屋敷街なので、常設の店舗は元々ないわけですが、屋台を引いてきて、あるいは立ち売りで飲食物を売ったようです。それは目に余るほどだったようで、拝観日に門前では商売をしないよう幕府が命じたぐらいでした。
当時、赤羽根屋敷内の水天宮の名前は江戸市中に鳴り響いていましたから、後日参詣しようと思って、伴四郎らは屋敷の見物がてら、下見に出かけたのでしょう。赤羽根屋敷にあった水天宮は現在、日本橋蠣殻町の地に鎮座しています。
江戸屋敷の中に国元の神様を勧請し、江戸市民に公開したのは、有馬家の赤羽根屋敷だけではありませんでした。虎ノ門の金刀比羅宮や赤坂の豊川稲荷も、香川県の金比羅社や愛知県の豊川稲荷を江戸屋敷内に勧請したもので、現在も厚く信仰されている神様です。
さて、伴四郎らは2つの屋敷を見学した後、泉岳寺まで足を伸ばし、赤穂浪士の墓に詣でています。当時赤穂浪士の墓所は、地方から訪れる観光客が必ず立ち寄る江戸観光の定番となっていました。
この日為吉は、品川まで行く用事がありました。そのため、品川から帰ってくるまでの間、伴四郎と平三は茶屋に入り、酒を呑んでいます。泉岳寺は忠臣蔵の影響で全国に知られた観光名所になっていましたから、一休みする門前の茶屋には事欠かなかったのでしょう。
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6月24日の日は、午後2時ぐらいに、叔父の平三や為吉と一緒に、渋谷の紀州家屋敷に出かけています。どのような理由かは良く分かりませんが、ご馳走になっています。出てきた料理は、鯵の干物、からすみ、芋とゼンマイが入った甘煮とドジョウ鍋でした。酒も呑んでいます。
ドジョウ鍋は、江戸でたいへん人気のある料理でした。最初は、ドジョウを丸のまま煮る丸煮という形で食べていました。現在でも、浅草界隈のドジョウ料理の老舗などに行くと、昔なからの丸煮のドジョウ鍋が食べられます。
その後、ドジョウを開いて骨などを取り除いた上、笹がきにしたゴボウと一緒に甘辛く煮て、卵でとじるという現在の柳川鍋のような食べ方が登場してきました。
骨を取り除いたドジョウ鍋については、伴四郎の時代から40年ほど前の文政年間に、現在の中央区にあたる南伝馬町の町人が、ドジョウの骨や内蔵を取り除き、鍋で煮た上で売ったのがはじまりと伝えられています。そして、30年ほど前の天保年間に、同じ中央区の横山同朋町に店を構えていた柳川屋が売り出して、ヒットしたようです。ドジョウ料理としては、ドジョウ汁もあります。
鍋料理は、江戸時代に入ってから一般に広まった料理です。ドジョウ鍋のほかに、なまず鍋、穴子鍋、鶏とネギの鍋などもありました。
からすみと言うのは、長崎の名産で、ボラの卵巣を塩漬けにして乾燥させたものです。酒のつまみとして珍重されました。
楽しい一時を送り、夕方の4時ぐらいに、渋谷屋敷を出た伴四郎らですが、お腹が空いてしまったのか、青山百人町で汁粉を2杯食べています。そして、紀伊国坂下で寿司を2つ食べ、午後6時に屋敷に戻りました。
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不忍池 6月22日は、大事な公務を果たした後、上野の寛永寺に参詣しています。寛永寺は、比叡山の延暦寺をモデルにして造営されたお寺ですが、増上寺と並んで、6人の将軍のお墓(霊廟)もありました。有名なところでは、5代将軍綱吉、8代吉宗、11代家斉が葬られました。吉宗は、伴四郎が所属する紀州藩の藩主から将軍になった人物でした。
現在の上野公園全体が寛永寺の境内でしたが、当時は寛永寺を参詣した後、不忍池の弁天堂にも参詣し、参道周辺に広がる茶屋で休憩するのが定番のコースとなっていました。伴四郎は小者の為吉と一緒に、茶屋に入りましたが、そこは茶屋というより、粋な料理屋という感じでした。伴四郎らは、湯豆腐・卵焼き・漬物を食べています。酒も1合呑んでいます。江戸に来て、料理屋で食事を取ったのは、これがはじめてでした。
上野の不忍池は、粋な茶屋が立ち並ぶ名所として知られていました。広重の錦絵にも描かれたぐらいです。倹約を強制する天保改革の時に、贅沢であるとして茶屋が取り払われたことがありましたが、伴四郎が江戸に来た頃はすっかり復活していました。
不忍池には、現在もたくさんの蓮がありますが、その葉を使った蓮葉飯が人気だったようです。目黒の筍飯と同じなわけですが、残念ながら、伴四郎は名物の蓮葉飯を味わうことはありませんでした。
2005年より、不忍池の近くに、夏限定で蓮見茶屋という店が設けられ、上野の観光振興に一役買っています。このような江戸時代の賑わいをイメージして企画されたわけです。
この日は、酔った勢いからなのか、上野から浅草まで繰り出しています。浅草寺に参詣した後、境内か門前の茶店に入って、甘酒を2杯呑んでいます。浅草から赤坂まではかなりの距離がありますが、何とか暮れ六つ時、つまり午後6時頃に長屋に戻っています。
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 6月20日は、少し遠出をしています。向かった先は目黒不動でした。
目黒と言うと、さんまが連想されます。毎年、目黒区でおこなわれる「さんま祭り」は、近年恒例の行事となっていますが、当時目黒と言えば、何と言っても目黒不動でした。江戸市民にたいへん人気のある観光名所で、門前は参詣客で絶えず賑わっていました。
江戸には、五色不動と言われる五つの不動がありました。目黒不動のほかは、目赤不動(文京区)。目青不動(港区。現在は世田谷区に移転)。目黄不動(台東区)。目白不動(文京区。現在は豊島区に移転)。この五色不動は、江戸を守る不動とされていました。
江戸の中心からは少し離れるので、気軽な日帰り旅行のような感じで、伴四郎も目黒不動に出かけたようです。この辺りは江戸郊外の農村地帯で人家もまばらでしたが、目黒不動の周りだけは賑わっていました。参詣客を相手に、門前には名物を売る茶店が立ち並んでいました。
目黒不動の名物と言えば、目黒飴・筍飯・粟餅の3つが挙げられます。寺院の門前で、飴菓子や餅菓子が売られるのは定番と言えますが、筍飯は目黒ブランドの軽食となっていたようです。
江戸後期に入ると、筍は現在の目黒区碑文谷や品川区戸越周辺の特産品となっていました。目黒不動の門前の茶屋はこれに目を付け、筍飯を売り出しました。それが評判となって、目黒不動の名物となりました。江戸からは少し遠いため、腹ごしらえにはちょうど良い軽食でもありました。
その茶屋には、給仕する女性たちもいました。伴四郎は日記に、「美婦」がたくさんいると書き残しています。美婦を目当てに、茶店や目黒不動に参詣する者も多かったようです。しかし、伴四郎は茶屋にあがって名物の筍飯を食べることもなく、そのまま帰っていきました。
ちなみに、明治に入っても、目黒の筍飯の人気は衰えず、門前には筍飯を出す料理屋が立ち並んでいました。
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6月18日は、朝は少し曇っていましたが、午前10時ぐらいから快晴になりました。この日、伴四郎は江戸に到着以来、はじめて生魚を食べています。20日ぶりに食べた生魚とは、アジとキスでした。
現在は、築地に魚市場がありますが、この時代は日本橋に魚市場がありました。首都高速が上を走っている日本橋の袂に行くと、そのが建っています。
当時は、一般に氷はなかったため、魚は塩漬けにしたり、干物にしています。特に夏は腐りやすく、当然ながら生魚は高値になります。100文出して買っていますが、蕎麦1杯が16文ですから、値段の高さが分かります。さほど手持ちがない伴四郎は、叔父の平三と100文を出しあって、ようやく生の魚を食べられたようです。それも、高級なものではなかったでしょう。
夕方になって、暑さも少し和らいできたのでしょう。赤坂の屋敷を出て、四谷に向かっています。夏祭りの時期でしたが、牛頭天王社の祭りが、この日から始まりました。牛頭天王社というのは、現在の四谷須賀神社のことで、現在も四谷地域の鎮守です。赤坂とは、すぐ目と鼻の先にありました。
初日ということもあり物凄い人出で、後ろを振り返ることもできないほどだったそうですが、お祭りに付き物の喧嘩に遭遇してしまいます。一時は騒然とした雰囲気になったようですが、そのうち、喧嘩はどこかへ行ってしまいました。
伴四郎は祭りを見物した後、水茶屋に入っています。四谷から赤坂へ帰る道すがらですから、外堀沿いにはたくさんの水茶屋が出ていたでしょう。伴四郎は水茶屋に入って、麦湯を飲んでいます。
麦湯とは、麦茶のことです。夏は夜になると、麦湯を売る店がたくさん出てきます。お堀端で涼みながら麦湯を呑むのは、江戸の夏の夜の風物詩でした。
麦湯の店では、浴衣姿の少女が給仕していました。浅草寺などの境内や門前の茶屋では、給仕する女性が看板娘となって、熾烈な販売競争を繰り広げていました。ここでも同じ光景が見られたわけです。
この日、伴四郎が長屋に戻ったのは午後8時頃でした。