江戸の町は、日本最大の観光都市でした。江戸城、大名屋敷、寺院、神社、隅田川、芝居町、そして飲食街には、多くの観光客が押し寄せました。東京の街歩きの源流は、まさに江戸の街歩きに求められます。
現代と違って、江戸の人々は、数多くの観光スポットを、歩きながら見て回りました。駕籠や馬もありましたが、財布の中身に余裕のある人や、吉原に繰り込む時を除き、たいていは歩きました。交通費を浮かせて、飲食代に充てたといったところでしょうか。そんなわけで、江戸の観光客のほとんどは、歩いて見て回りました。
当然、現代の観光客に比べれば、体の消耗は激しく、目的地にたどりつく頃には、喉は渇き、お腹もすきました。それを狙ったかのように、お寺や神社の門前には、多くの飲食店が立ち並んでいました。
食べ物や飲み物を売るのは、門前や境内の店だけではありません。どこからか屋台もやって来ましたし、食べ物を立ち売りする人たちも大勢いました。目的地の観光スポットだけではなく、歩いていく道すがらにも、食べ物を売る人たちがいました。江戸の人々は、食べたり飲んだりしながら、江戸の街歩きを楽しんだのです。
ここに、酒井伴四郎という紀州徳川家の下級武士がいます。伴四郎も、江戸の街歩きを楽しんだ一人でした。
時は、今から150年ほど前の万延元年(1860)。この年の3月3日には、幕府最高実力者の大老井伊直弼が襲撃され、命を落とすという事件が起きるという物騒な年でした。しかし、春が過ぎ夏がやって来ると、江戸の町は、その騒ぎを忘れたかのような日常になりました。
その頃、郷里の和歌山から出てきた伴四郎ですが、江戸ははじめて。見るもの聞くもの、珍しいものばかりでした。年齢は28才。妻子を置いての江戸単身赴任です。勤務の傍ら、江戸観光と食べ歩きに精を出します。次回からは、伴四郎の残した日記から、江戸グルメの様子をみていきます。なお、伴四郎の江戸観光の足跡については、安藤優一郎『観光都市江戸の誕生』(新潮新書、2005年)所収の年表も合わせて御覧いただければ幸いです)。
現代と違って、江戸の人々は、数多くの観光スポットを、歩きながら見て回りました。駕籠や馬もありましたが、財布の中身に余裕のある人や、吉原に繰り込む時を除き、たいていは歩きました。交通費を浮かせて、飲食代に充てたといったところでしょうか。そんなわけで、江戸の観光客のほとんどは、歩いて見て回りました。
当然、現代の観光客に比べれば、体の消耗は激しく、目的地にたどりつく頃には、喉は渇き、お腹もすきました。それを狙ったかのように、お寺や神社の門前には、多くの飲食店が立ち並んでいました。
食べ物や飲み物を売るのは、門前や境内の店だけではありません。どこからか屋台もやって来ましたし、食べ物を立ち売りする人たちも大勢いました。目的地の観光スポットだけではなく、歩いていく道すがらにも、食べ物を売る人たちがいました。江戸の人々は、食べたり飲んだりしながら、江戸の街歩きを楽しんだのです。
ここに、酒井伴四郎という紀州徳川家の下級武士がいます。伴四郎も、江戸の街歩きを楽しんだ一人でした。
時は、今から150年ほど前の万延元年(1860)。この年の3月3日には、幕府最高実力者の大老井伊直弼が襲撃され、命を落とすという事件が起きるという物騒な年でした。しかし、春が過ぎ夏がやって来ると、江戸の町は、その騒ぎを忘れたかのような日常になりました。
その頃、郷里の和歌山から出てきた伴四郎ですが、江戸ははじめて。見るもの聞くもの、珍しいものばかりでした。年齢は28才。妻子を置いての江戸単身赴任です。勤務の傍ら、江戸観光と食べ歩きに精を出します。次回からは、伴四郎の残した日記から、江戸グルメの様子をみていきます。なお、伴四郎の江戸観光の足跡については、安藤優一郎『観光都市江戸の誕生』(新潮新書、2005年)所収の年表も合わせて御覧いただければ幸いです)。
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